・1889年(明治22年)12月10日撮影の3枚です(第四次澪留が1週間前の12月3日に完了している)
・コメントには牟呂新田とある、牟呂沖の新田だから便宜上「牟呂新田」と呼んでたと推測
・コメントの「字龍江」のは開拓中でも場所の特定が必要だったので命名したと推測
(毛利新田譲渡契約には「字龍江」はすすれてないので仮の名と思われる)
・「龍江」に付いては、この下で説明する
▶ 写真1(第四号堤より東方開墾の図)
・写真は明治22年12月(堤防が一応完成する半年前)に撮影されている
・堤防の呼び名の四号は現在と同じである
・堤防の左側の杭や石が無いのは波浪による浸食が無い側、すなわち陸地側である
・写真の左側が陸地側とすると東側で、コメントと整合する
・この時点では南側の三号堤は切れ切れの状態の様に見える
・左の地図(南が上)の毛利新田と書いた円の当たりの写真と推測される
・左の地図はクリックで拡大表示する
▶ 写真2(字龍江より土砂運搬の図)
・写真は明治23年12月頃(堤防が一応完成する頃)に撮影されている
・堤防の呼び名は現在と同じである
・堤防の左側の杭や石があるのは波浪による浸食防止のため、すなわち海側である
・左の地図(北が上)、「龍江」に付いては、この下の説明参照
・コメントに「澪へ」とあるが、この辺りが3つの内の澪の1つのはずだが、現在
3つの澪の場所がどこかは見つけられていない
・左の地図はクリックで拡大表示する
▶ 写真3(□□より土砂運搬の図)
・堤防の東側が堅固なので海側と考えられる
・写真のコメントが読めないので場所など他、推測不可
▶ 龍江の場所
・ 下の地図は牟呂史から流用の地図で干潟の形が見える珍しい地図です
・3号と4号の堤防が交わる西南の角の下にある干潟の島の名前に「龍江」とあり、龍が付く名前に納得します
・梅田川が押し寄せた砂に負けて大きく北に蛇行しており、その後の地図にも影響が見えます
・夫木集とは、『夫木和歌抄』(ふぼくわかしょう、夫木抄、夫木和歌集、夫木集とも)は、鎌倉時代後期に
成立した私撰和歌集である。 選者は地方武士の藤原長清(生没年不詳)。 ... 原典となる和歌集がすでに
散逸するなどして現存しない和歌を多く含んでおり、国文学研究のうえで重要な資料に位置づけられている。