▶ 毛利新田と牟呂用水は岩本らが福島献吉の測量を基に工事設計をしたようだ
・明治初期は政府が新田開拓を奨励していて、愛知県としても新田開拓を進めたかった
・士族が環禄金を持ち寄って多くの国立銀行が誕生し新田開拓に多く融資するケースがあったが、武家の
商法で多くが失敗していた
・デレーケ(オランダ人)による木曽三川の改修計画は岩本賞壽には新鮮な技術に映ったはずである
(神野新田の澪留の堤防の基礎に使う粗朶沈床技術はデ・レーケ達が日本に持ち込んだもの)
・県庁土木課の岩本賞壽が牟呂沖の開拓に適した寄り洲を確認、福島献吉に付いても勉強したはず
・牟呂沖の新田開拓を同郷の勝間田知事から旧長州藩の家老が関係する百十銀行の融資案件に紹介できれば
郷土のためになると考えても不思議ではない
・福島献吉の富士見新田と後の牟呂沖(毛利新田)と灌漑用水(牟呂用水)の測量について、岩本賞壽が
福島献吉の測量資料を知っていても不思議ではない
・岩本賞壽は毛利新田を設計した優秀な設計者の一人と言われており、福島献吉が測量した富士見新田外側の
新田開拓予定地(旧で920町歩は新で1,100町歩)をそのままに、工事設計しただけと考えられる
・明治17年に賀茂用水の計画が出て、明治18年に牟呂沖の新田開拓を知事に説明、20年に賀茂用水延長工事
申請、毛利氏が新田開拓決定とあり、以上を纏め・誘導できるのは岩本賞壽だけである
・明治37年発行の神野新田紀事にも岩本賞壽の名が出てきており、土木関係では多くの方面から一目置かれて
いたと推測できる
▶ 山田寅吉のウィキ
▶ 山田寅吉による牟呂(毛利)新田築堤
・山田寅吉は凄く仕事のできる人
・日本土木会社は明治20年から25年に存在したので、ここでの牟呂新田は毛利新田の事のはず
▶ 日本土木会社
▶ 福島が測量した時代の1反は、360坪、現在は300坪である
・草間方とは二回新田のことようだ
▶ 1反が、360坪から現在の300坪に変わった経緯(Wikipedeaより)
土地の面積(地積)の単位の反(段)は、面積の基本単位である歩(坪)の倍量単位であり、現在は10畝(300歩)と定義されている。10反が1町となる。
メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1尺 = 10 / 33 メートルと定められたので、そこから1反= 991.736平方メートルとなる。この値は10アールに非常に近いので、面積(とりわけ地積)についての日本のメートル法化は、スムーズに行われた。
古代には米1石の収穫が上げられる田の面積を1反としていた。よって、土地の条件によって1反の面積は異なることになるが、同じ反数であれば同じくらいの収穫があることになる。米1石は大人1人の1年間の消費量に相当することから、米1石が穫れる面積を単位とするのは自然なことであった。その面積がおおむね360歩であったことから、1反は360歩に固定されるようになった。太閤検地によって1反は300歩に改められ、今日に至る。1反を300歩にしたのは、年貢の増収のためという説もあるが、米の生産効率が上がって300歩程度で1石の収穫が上げられるようになったためとする説もある。
▶ 毛利新田と牟呂用水が作られていく年表(富士見新田から神野新田の完工まで)
・文久3~4年(1820~21)福島献吉が後の毛利新田となる内側に富士見新田を開拓した
・天保4年(1833)江戸幕府が大津島(田原の東の洲)附近一帯を大規模新田開拓するとの噂が出た
・天保4年(1833)吉田藩が幕府に対抗し、富士見新田の外側に920町歩の新田と松原用水を参考にした灌漑
用水の測量が福島献吉によりに実施させたが開拓はされなかった
・福島献吉の測量は後の毛利新田と牟呂用水とほぼ同等であったが、二回新田は含まれてなかったよう
・明治5年(1872) 名古屋県(名古屋藩の政事庁)が「愛知県」と改称
・明治6年(1873)オランダ人土木技師のデ・レーケ達が明治政府の要請で来日
(高い技術を持つオランダ人が明治政府により招集され、国内の重要な河川や干拓地の開拓が始まる)
・明治10年(1877)頃に岩本賞壽が愛知県庁へ入庁(明治20年頃には岩本が土木課長との情報がある)
・明治11年(1878)にデ・レーケによる木曽三川の改修計画が始まった
・明治11年(1878)第百十国立銀行が設立、頭取は毛利祥久の姉婿(養父)の毛利親信
・明治12・13年(1879~1880)に岩本賞壽が牟呂沖の寄り洲を確認
・岩本賞壽は福島献吉の富士見新田開拓と富士見新田の外側(毛利新田)と灌漑用水(牟呂用水)を測量した
資料を勉強したと考えられる
・明治17年(1884)夏、賀茂・金沢・八名井の村民は、旱対策として豊川から引水の準備を始める
・明治18年(1885)1月に赴任してきた勝間田稔県令に牟呂沖の寄り洲を御注進したのが岩本賞壽
・明治18年(1885)第百十国立銀行の頭取の毛利親信が亡くなり、毛利祥久が取締役になる
(毛利祥久が頭取になったとの情報もあるが山口銀行史では取締とある)
・勝間田稔は愛知県庁の全面的バックアップを条件に毛利新田開拓を毛利祥久に勧めた
* 毛利祥久は長州藩の家老の家系、勝間田稔、岩本賞壽も長州出身なので毛利に花を持たせたい
* 百十銀行が融資先が無く経営に困っていたことは、勝間田と岩本が協力したかった思われる
* 愛知県としても大規模新田開拓はしたいがスポンサーが欲しかったと考えていたはず
・明治18年(1885)にデ・レーケが木曽三川の分流計画書を作成
・明治19年5月8日に初代神野金之助が菱池新田の完工式を開催し勝間田稔も出席しているが、毛利新田の
ことは初代神野金之助に勧めていないようだ。(毛利祥久にやらせたかったと推測)
・明治20年(1887)毛利善久は技師を同伴し岩本賞壽や現地の人からの説明を受けて現地調査する
・明治20年(1887)デ・レーケによる木曽三川の分流工事が始まる
(愛知県庁もデレーケ達に触発され開拓を進めたと推察できる)
・明治20年(1887)4月に賀茂用水路計画、県庁に支援申請し岩本賞壽が現地調査して報告書作成
・明治20年(1887)7月に賀茂用水路完成
・明治20年(1887)9月に暴風雨で賀茂用水が破壊、愛知県庁は補助金が出せず、賀茂用水を延長して毛利
新田にも灌漑する案を毛利祥久に申し入れ、10月頃に毛利祥久側が全工事費負担で承諾する
・明治20年(1887)11月、毛利祥久は牟呂吉田沖に千百町歩の新田開拓出願
・明治20年(1887)11月、毛利祥久は賀茂用水路を延長し、牛呂に至る年呂用水路工事着手
・明治20年(1887)12月、毛利祥久の新田計画許可
・明治21年(1888)4月に毛利祥久、新田開拓に着手
・明治21年(1888)9月に午呂用水路工事完了
・明治22年(1887)頃、明治19年の納屋橋の改修工事のトラブルで岩本賞壽が愛知県庁を辞職する
(毛利側で雇われたようで、牟呂用水のトラブルで賀茂・金沢・八名井の対応に忙しかったよう)
・明治24年(1891)10月1028日、濃尾大震災で堤防に亀裂が入るも応急処置で対応した
・明治25年(1892)9月14日に毛利新田破堤浸水、豊川堰堤・宇利川堰堀・用水堤防も大損害
(神野新田紀事には「岩本・桑原……呆然としていた」と新田事務所にいたことが書かれている)
・明治25年(1892)12月に毛利祥久が毛利新田の再築を断念
・明治26年(1893)4月 に毛利新田の全権利が初代神野金之助に譲渡される(以降、神野新田)
(毛利新田の譲渡証の毛利側の保証人が岩本賞壽で住所は名古屋市であった)
・明治26年(1893)、神野新田の築堤に関する検討会で、毛利新田の設計にも携わり、最も有名な技師の
一人であった岩本賞寿氏は反別縮小説には大いに反対し、原形のまま築堤すべきと主張したが、人造石の
工事に関しては認めなかったとある
・明治29年(1896)4月15日の神野新田成功式に岩本賞壽の祝電もあったと「神野新田開拓百年史」にも
記載がある(この時点での住所と勤め先に関する資料は見つかっていない)
▶ 牟呂用水に見る岩本賞壽の誘導(神野三郎伝より)
賀茂用水工事については、単に愛知県庁に対して「用水路開墾出願書」を提出して許可を受けただけではなく、工費額の不足を陳情して、県当局の補助を乞うたのであった。
県当局も亦その陳情に対して、これを無関心に放置したものではなく、土木課属岩本賞寿を派遣して、詳さに現地を所在せしめたのであった。
烱眼な岩本は、この用水路の完成のためには、この水路を下流地方にまで延長して開墾することにより、その灌漑の恩恵を下流地方農民に与え、同時に、その開墾に要する費用を分担せしめることが、いわゆる「一石二鳥」の良策であることを確信していたのであった。明治20年(1887)5月、岩本の現地踏査の「記録」には、「此水路を〔下流地方に延長して〕 設くるの飲用たるやまた尠しとせず、概略7・8万円を要すべければ、土地人民に悉くこれを負担せしむるは甚だ困難なことなれば、牟呂地先へ一の新田を築立て、之をして費用の半額を支出なさしめば両全の策なるべし、而して築立の新田反別は凡そ千町歩と定めて、又灌漑すべき熟田の反別凡老千町歩あるペければ、一反に付四円内外ならん。然りとすれば、敢て負担に応えざる程の入費にもあら ざるべし」と述べている。いわば、後年の「毛利新田」の計画は、既にこの当時、岩木の脳裏に鮮明に描かれていたものというも敢えて過言ではないであろう。 事実、毛利祥久の出資による「毛利新田」の計画は、その後約半年を経て現われたのであった。
▶ 岩本賞壽は愛知県庁をやめて毛利で働いた
・岩本賞壽が愛知県庁を退職した原因の納屋橋工事関係の
トラブルが発生した頃の納屋橋
・岩本賞壽は明治25年に毛利新田事務所で働いていたと
記述があるので、その頃に退職しているよう
【概略】
・堀川にかかる納屋橋は、名古屋停車場開業に合わせ
拡幅された
・明治24(1892)の濃尾地震により被災、翌年改築されした
・木橋であった納屋橋を近代的な鉄石混用の橋に建て替え
る工事が明治末期より行われ大正2年(1913)に完成した