毛利新田の工事状況の解説動画

神野新田開拓百年記念誌より


 ・明治22年12月10日の日付と説明のコメントがある

 ・コメントには牟呂新田あるので、写真撮影当時は牟呂新田と呼んでいたようだ

 ・工事中は牟呂新田、完成後は通称毛利新田で正式名は吉田新田であった


毛利新田」の築堤工事

 「毛利新田」は再三にわたって暴風雨や地震の被害を受け、ついに悲劇的な結末に終わったが、上の三枚の写真は毛利新田築堤中の珍しい写真である。

 すなわち、毛利新田の築堤のための最初の澪(みお) 止め工事は、明治22年(1889)7月5日に行われたが波涛のため、同日破壊された。翌々日の7日、第二次の澪止めをしたが、9月11日の暴風雨で破壊され、人夫数十名が逃げおくれて行方不明となった。これにこりず、更に11月14日には第三次の澪止めをしたが同月26日に高潮のため破壊された。さらに12月2日澪止めし翌12月3日に至ってやっと成功した。神野 新田が一回の澪止めで成功したのにくらべて四回目の澪止めで漸く成功するという難工事であった。写真はその直後に写されたものである。

 写真にはそれぞれ、「明治22年12月10日牟呂新田澪へ宇龍江ヨリ土砂運搬之図」、「明治22年12月10日牟呂新田澪へ其内外より土砂運*之圖」、「明治22年12月10日牟呂新田第四号堤ヨリ東方開墾之図」の説明文が焼込まれている。

 かくして翌明治23年(1890)5月,総延長6,729間(12,233メートル)新開総面積1,049町3反7畝(1,039ヘクタール」の「吉田新田」といわれ、出資者の名に因んで「毛利新田」ともいわれた大新田が完成した。工費は、当初の予算13万円に対し、41万円にのぼった。赤間関銀行の総資本金の3分の2に達する巨額であった。

 

「毛利新田」の完成と壊滅

 明治23年7月5日、道路・用水・堤防・汐除など 104町3反7畝歩を除いた945町歩が民有地として払い下げられた。さっそく、新田内の牟呂村に近い数町歩に試作の稲苗を植付け、牟呂用水によって灌漑したところ、相当の成果をおさめることができ、初穂米百俵が毛利祥久事務所の庭に積上げられた。天然養魚池の試飼育もはじまり、明治24年(1891)には明治23年より向こう50年間の免租の指令も受けた。

 しかし「毛利新田」の不運は続いた。明治24年(1891)10月28日の濃尾大地震によって「毛利新田」の堤防は潰れ、地盤は亀裂し澪止めは陥落した。一同は必死になって応急工事をして、辛うじて一時の危険を防いだが、その程度では永久の補強とはいえなかった。翌明治25年(1892)9月4日の大暴風雨で、波涛は「毛利新田」大手堤防のうち前年崩壊して修復されたところを襲い、柳生川筋からも潮水が侵入し、逆巻く波は非常な勢いでみるみるうちに新田に氾濫し、たちまち百三十人余の人家を押流し、住民は浮きつ沈みつ救助を求め、流木にすがって危うく一命を助かったものもあったが、波にのまれたものも少なくなかった、という。「毛利新田」は一夕にしてもとの潮海となった。牟呂用水も豊川堰堤や宇利川洗堰や附近の用水堤防など大損害を蒙った。小作人は離散し、ついに毛利祥久も意を決して売却することとし、人を東西に派して買主をさがした。そして初代神野金之助重行が945町歩の所有権と既成用水路の全部およびこれに附帯するすべての水利、権利義務を買受け、その手続きが完了したのが明治26年 (1893)4月15日であった。

 

四回目にやっと成功した毛利新田築堤工事の澪止

明治22年   7月 5日 第一次澪止

(1889)     同日 破壊される

         7日 第二次落止

          9月11日 破壊され、数十人死亡

                11月14日 第三次澪止

                26日 破壊される

         12月 3日 第四次落止

明治23年    5月           堤防工事完成

(1890)

明治24年 10月28日 濃尾地震、堤防被害

(1891)

明治25年   9月   4日 大暴風雨のため破堤、損害甚大

(1892)12月       毛利祥久、新田再構築断念

 海面築立開墾願

毛利新田開拓の願書(愛知県庁の直営工事を前提・・・知事了承済)