▶ 福島献吉の開発計画
・福島献吉による開発計画は、富久縞新田・牟呂村・草間村地先の海面の干拓計画をたてた
・ 天保4年3月から計画に入り、設計は920町(ただし360坪/反)であった
・江通りを除いて牟呂方面で732町余、 草間方面に54町余の耕地を得られるはずであった
▶ 福島献吉の開発計画図
・梅田川り河口は押し寄せる干潟で入り口をふさがれ二回新田内を大きく蛇行していた、この下にある
明治22年の地図を参照
・この計画図が毛利新田の設計に生かされたことが見て取れる
・品井区とあるが現在のアザ名の品井潟と思われる、市内の干潟?
▶ 六条沖(毛利新田)の設計
・文久3~4年(1820~21)福島献吉が後の毛利新田となる内側に富士見新田を開拓した
・天保4年(1833)江戸幕府が大津島(田原の東の洲)附近一帯を大規模新田開拓するとの噂が出た
・天保4年(1833)吉田藩が幕府に対抗し、富士見新田の外側に920町歩の新田と松原用水を参考にした灌漑
用水の測量が福島献吉によりに実施されたが開拓はされなかった
・福島献吉の新田の測量は総面積(約920町歩)なので、後の神野新田の三郷と五郷(富士見新田沖)の側で、
二回新田はどのような扱いであったかが気になる
・福島献吉の用水の測量は後の設計に使われたため、現在の牟呂用水とほぼ同等である
▶ 福島献吉による設計の状況(下記の「神野新田 酒井正三郎著」より)
・富士見新田を取り巻く新田の設計とあるので北側(三郷や五郷)を考えいたと思われる
・北側だけであれば、約900町歩の計算が成り立つ(二回新田り200町歩は考えてなかった)
・草間とあるが、磯辺の草間のことだと思うが50町歩と二回新田り200町歩に癖らベて少ない
▶ 草間方とは(豊橋百貨事典より)
・福島献吉が牟呂沖を調査した時代は磯辺や王ケ崎は
草間と言われていた
・従って、二回地区は(草間方 ・・・ 草間の方の意味)
の意味ではないだろうか?
・上の資料で草間方が54町、新田全体が920町と
あるので、北側も南側も、福島献吉の測量した
のは毛利新田より少し小さいということ?
・下の尾参実測図の北側の新田に現在の堤防より
一回り小さい囲みが、意味がありそう
・毛利新田を設計する時に、岩本賞壽らが千町歩
を超えるようにしたと考えられる
▶ 明治30年発行の地図(この地図の測量年は書かれてなかった)
・下の明治21年測量の物より、二回新田が締め切られているので、明治22年以降の測量のはず
▶ 明治21年の地図(この地図の発行は明治30年)
・毛利新田は明治21年に起工式、この地図の時は築堤の初め頃
・北側は堤防が書かれているが、二回側は堤防が書かれてなく干潟のままのよう
・3号堤防の沖は大きな干潟のよう
▶ 明治22年発行の地図(毛利新田の堤防構築中)
・上の地図より洲の状態が良く分かる(干潮時ではないかと推測)
・地図が測量された時期は毛利新田の堤防が作り始められたころと考えられる
▶ 明治9年の地図
▶ 1867年の三河を拡大した地図
・明治維新の一年前、六条沖の寄り洲は満潮時でも見えてたように描かれている
▶ 明治21年11月発行の書籍に有る三河の地図
・毛利新田の工事を開始する年、地図は工事以前で大きな寄り洲がある