時代的背景(写真は登場人物)

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・1878年(明治11年)11月25日

    * 旧長州藩士が同藩で明治政府重鎮の井上馨等の勧めで、金禄公債を元にし資本金

   60万円で第百十国立銀行(後の山口銀行)を創立、初代頭取は士族総代の右田毛

   利(家老)12代当主・毛利親信(姉婿で祥久:よしひさの養父)が就任した 

・1880年(明治13年)

    * この頃、愛知県庁土木課の山口県人の岩本賞壽が牟呂沖の寄り洲を発見した

・1885年(明治18年)

    * 毛利祥久は親信没後、家督相続と第百十国立銀行の取締に就任した

   (山口銀行史には祥久は取締役、頭取は別人が就任していると書かれている)

・1885年(明治18年)

    * 山口県出身の勝間田稔が愛知県令で赴任、同じく山口県出身の岩本賞壽が勝間田

   に牟呂沖の寄り洲の優位性を報告

・1886年(明治19年)

    * 勝間田は出資那智の山口県の元家老家が取締の第百十国立銀行のため、愛知県

   庁も全面支 援する約束で、ぜひ牟呂沖の新田開拓を勧めた

  (第百十国立銀行も融資先が無く困っていた)

・1887年(明治20年)

    * 毛利祥久は第百十国立銀行の資金をもって新田開拓を決意

・1888年(明治21年)

    * 毛利は工事が難しいので監督を愛知県庁に懇願し、愛知県庁の監督の下での

   工事と決まり、この年に起工式を行った

・1889年(明治22年)

    12/23、工事を県庁から毛利に戻した(監督を岩本賞壽から桑原為善に移行) 

・1890年(明治23年)

    * 数回の天災を克服して堤防が完成した

・1891年(明治24年)

    * 濃尾地震で毛利新田の堤防が破損し、応急処置的な復旧でしのいだ

・1892年(明治25年)

    * 暴風雨の波浪により地震で傷んでいた堤防が破壊し浸水し、死者が多数出る等、

   多大な被害が出て開発を断念し、毛利新田と牟呂用水の権利を売りに出した

・1892年(明治25年)

    * 開墾事業の40万円が第百十国立銀行の大損失、井上馨が救済を取りまとめた

・1893年(明治26年)

     * 毛利新田と牟呂用水の全権利を初代神野金之助に41,000円で譲渡する

・以降、

    * 初代神野金之助が毛利新田の基本設計を元に人造石で神野新田を開発



▶ 毛利祥久は頭取にはなっていない

渋沢社史DB「山口銀行史」には毛利祥久は取締役とある、下記年表の様に頭取にはなっていない。


    -明治11年(1878)毛利親信(藤内)が第百十国立銀行(後の山口銀行)の初代頭取となる

           (藤内は姉婿で右田毛利12代当主となり、祥久の養父

   -明治18年(1885)5月23日に藤内が死去

   -明治18年(1885)6月13日に小幡高政が二代目頭取に就任

   明治20年(1887)11月、第百十国立銀行、取締役毛利祥久、支配人草刈隆一の名義をもって愛知県の

                                                 三河干拓(毛利新田)の築立に着手

   -明治23年(1890)1月12日、木梨信一が百十銀行の三代目頭取となる

   -明治33年(1900)12月22日、木梨信一が逝去

   -明治34年(1901)1月15日、武弘宜路が百十銀行頭取に就任(以降、代目の情報は見つからず)


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