毛利新田開拓年表

毛利新田は明治21年に工事開始、明治23年に堤防完成、明治24年に濃尾地震で堤防破損、明治25年に堤防が波浪により地震で傷んでいたヶ所から崩壊して浸水し、元の海原に戻る。


明治11年(1878)右田毛利12代当主の毛利親信(藤内)が第百十国立銀行(後の山口銀行)の初代頭取となる。

明治13年(1880)愛知県庁土木課の山口県人の岩本が牟呂沖に開拓に適した広大な洲を確認した。

明治18年(1885)5月23日に藤内が死去

         6月13日に小幡高政が二代目頭取に就任

明治18年(1885)毛利祥久が親信没五家督相続し13代当主、および第百十国立銀行の取締役となったよう。

          (頭取になったとの情報が多いが山口銀行史には取締役としてしか出てこない) 

明治18年(1885)山口県人の勝間田稔が愛知県令(知事)として赴任、岩本が牟呂沖の洲の事を報告した。

明治19年(1886)この頃、勝間田は毛利祥久に県の全面的支援約束し、銀行の融資案件として開発を勧めた。

明治19年(1886)三河国八名郡加茂、金澤、八名井の3ヶ村は大日照りにあったので、同郡の一鍬田村から

          豊川の水を用水路で3ヶ村に灌漑することに決め、ただち工事に着手した。

          しかし工事費用が払えなくなり、愛知県庁に補助金を陳情する。

明治20年(1887)11月、毛利祥久は第百十国立銀行の支配人草刈隆一の名義で新田開発事業が決まった。   

明治20年(1887)毛利祥久は10月に「渥美郡牟呂村始メ六ヶ村地先開墾凡反別一千百町歩、此工費

         金拾弐万六千八百壱拾四円弐銭」の「海面築立開墾願」と「目論見書」を愛知県

                             知事勝間田稔に提出し12月に許可された。

明治20年(1887)新田用の水を加茂、金澤、八名井の3ヶ村の用水路を新田まで延長する案を勝間田が祥久に

          勧め、祥久は11月に出願、同月に許可、直ちに工事に着手した。

明治21年1888)新田用水路(後の牟呂用水)により豊川の水量が減り差し障りが出ると船頭や荷問屋が

          用水路を許可した勝間田知事を訴えた。(和解金や各種取り決めで解決)

                                 牟呂用水に付いては、ここをクリックして「神野新田HPの牟呂用水」を参照

明治21年1888祥久は大工事であることから愛知県に監督を請願し許可され、県直轄工事と同等となった。

明治21年18884月15日(注1)、愛知県庁は毛利氏よりの願いにより築堤起工式を挙げた。

明治22年18897月5日、3ヶ所の澪留工事をしたが大波で2ヶ所が破壊された。

明治22年18897月7日、2次澪留工事が完了した。

明治22年1889)9月14日(11日)未曾有の大津波が起り、近隣諸国の新田もことごとく堤防が破壊される

          被害に 遭遇、毛利新田も激しく押寄せる波で全て破損し、工事の跡形が無くなってしまった。

                                 開墾事務所やその他の建造物も全て滅亡、作業者数十名が亡くなってしまった。

        (年表の下に関連記事を掲載している) 

明治22年1889)11月、3次澪留工事が完了したが、西風の季節風が厳しく工事が進まない。

明治22年1889)11月26日、季節風による大きな波浪で澪のいくつかが破損する。

明治22年1889)12月、4次澪留工事が完了した。

明治22年1889)12月10日撮影の堤防写真が3枚残っており、そこには牟呂新田とコメントがある。

         (毛利の人たちは牟呂沖の新田だから牟呂新田と呼んでいたのではないか)

明治23年(1890)1月12日、木梨信一が百十銀行の三代目頭取となる

明治23年(1890)3月3日、主要工事が一段落したため愛知県の監督を解く、後任は毛利配下の桑原へ。

明治23年(1890)5月、数回の天災を克服して堤防が完成した。

明治23年(1890)田の試作として新田内の牟呂村本村の附近にて数町歩の土地に稲の苗を植付けた。

明治23年(1890)新田内の養魚税を明治23年より同25年に至3年間で金3,700円と決めた。

明治23年(1890)7月5日、民有地さげ私の許可が出る。(正式名称の吉田新田もこの時期では?)

明治24年(18911月31日年付をもって新開墾地の租税免除をその筋に出願し、同年4月14日付をもって

          明治23年より向こう50年間を租税免除とするとの指令があった。

明治24年(1891)10月28日の濃尾地震で毛利新田の堤防が破損し、復旧を急いだ。

明治25年(1892)移住者が130余戸となり、570余町歩に植付できるようになったこと、当年は降雨が多く

          用水が十分、塩分がほとんど除去されていたので豊作が確実視されていた。

明治25年(1892)9月4日、暴風雨の波浪により地震で傷んでいた堤防が破壊し浸水して多大な被害が 発生し

          死者も多数出て、復旧のめどが立たず新田開発を断念した。

明治25年(1892)開墾事業の40万円が損失となった第百十国立銀行の救済は井上馨が取りまとめた。

         (当初予算は 126,814.02円 だったが、 400,000円  が損失となった

明治26年(1893)毛利新田の全権利を神野金之助に41,000円で譲渡した

明治33年(1900)12月22日、百十銀行三代目頭取の木梨信一が逝去

明治34年(1901)1月15日、百十銀行頭取に武弘宜路が就任

明治34年(1901)7月15日、百十銀行頭取の武弘宜路が辞任、室田義文が頭取に就任

明治44年(1911)1月22日百十銀行頭取室田義文辞任

明治44年(1911)11月23日、百十銀行頭取武弘宜路就任

大正  2年(1913)2月3日、百十銀行頭取武弘宜路辞任、代って植村俊平頭取に就任


明治22年9月11日の大海嘯の神野新田紀事と当時の記事


コメント

 ・(注1)、4月15日は初代金之助の誕生日で、4月15日はその後の神野新田のイベント実施日にもなっており

  初代金之助との因縁が見えるように思える

 ・安田財閥の安田善次郎も毛利新田を買い取ろうとしたが、一日違いで初代金之助に買われてしまった 

 ・毛利祥久は時系列で見て百十銀行の頭取にはなっていない、社史には取締役で出てくる