長坂理一郎翁の「昔はなし」から毛利新田と神野新田
長坂理一郎は豊橋市一の料亭「千歳楼」の主人、明治から昭和の豊橋のエピソードを纏めたものが、豊橋「昔はなし」で、初代金之助とは面識があり、毛利新田や神野新田も出てくる

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   2017年05月24日  服部長七の鋭い頭    (神野新田)

 今のようにセメントなどで軒下がやれないころは一般家庭では伊豆石というのを用いました。請負師の服部長七というのが伊豆石の代りにセメントでそれをつくるようになり、伊豆石にそれが代りました。

 服部長七は神野新田の「みよどめ」を作った人で、新しい工夫についてはなかなか鋭い頭をもっていました。


   2017年01月06日  先代神野翁の料理    (神野新田)

 神野新田が完成して榎本武揚が新田を視察にやってくることになったとき、接待の打合せで先代の神野金之助翁から私は牟呂へ呼ばれました。話がすんでから「食事をしていけ」ということでありました。

 「さあ一緒に食べよう」と私は上座に据えられ、お膳が出ました。そのときの献立はさくら海老の煮つけ、おつゆ、焼麩にのりでした。お膳のそとはナスの焼いたのに沢あんでした。

 しかも当主の金之助翁も、従業員も、私もみんな同じ献立で、上下もないのに、なるほど、これは、大へん立派なことであると私はたいへん感心したことがあります。


   2016年09月22日  先代の神野さま     (神野新田)

 神野新田の話のつづきですが、私は先代の神野金之助さまにお目にかかっています。頗る信心深い御方で名古屋で市電がまだ通らぬ夜明けに、毎朝御一人徒歩で本願寺へ参詣されていたと聞いています。

 言葉の少ない方で、名古屋へ市電ができてからも、電車に乗らずに、てくてくと歩いておられたようです。

タバコは喫われませんでしたが、伺えば用意してあるタバコを人にはすすめるという御人でした。

 私が新田の方へ伺ったとき「御主人と食事をしていってくれ」という御宅の方の御話に「恐れ入ります」と言葉に甘えて食事をいただいたことがあります。そのおりでも、私を上座に座らせ、しかも、手伝いの百姓たちの作った心のこもった料理でした。私は食事をいただきながら「立派な人だ、温い方だ」と感じました。


   2016年09月21日  六十人でおこわ飯行列  (神野新田)

 さて、神野新田の祝いのおこわを車で曳いていけば、おこわも御料理もごっちゃになってしまうので、どうしたらよかろうかと苦心しました。

 結局、当時の大家には必ずあるかご長持というのを用いました。かご長持というのは大、中、小で一組となっていますが。これを五組こしらえました。つまり、長持十五個というわけです。

 この十五個の長持を家の出入の大工さんや車力さんにになわせたのですが、十五個の長持には六十人の人間が必要でした。つまり、一つの長持に四人ずつ要しますからね。この六十人に千歳楼と染めぬいた揃いのはっぴを着せて、千歳楼と染めぬいたゆたんをかけて、牟呂の神野新田まで行列をつくって出かけたのは、私から言うとおかしいが壮観のきわみでした。

 おこわの行列として、こんな行列は前代未聞だったでしょう。


   2016年09月20日  神野家の番頭と争う   (神野新田)

 毛利新田についで神野新田が完成した御祝いのおりのことです。神野家の番頭が「名古屋は白いおこわを用いるから」と白いおこわを私の方へ注文されました。私はまたこんな性分ですから「名古屋の習慣はどうかしらないが、豊橋では赤いおこわをくばることになっているから、おこわは赤いのをつくる」といって、どちらが注文主だかわからないようなことになりました。

 神野家では「まあいいように……」という御話でしたが番頭さんが説を曲げないのです。私も曲げないのです。どうなるかと内心は私も心配したのですが、とうとう両方の説に顔を立てるようなことになりました。

 つまり、名古屋風と豊橋風のおこわを半々ずつつけたわけで、出来上ったものは紅白の彩りでかえつて立派なものになりました。


   2016年09月16日  板新道という庭園    (毛利新田視察のお殿様)

 毛利五郎は「犬を散歩させたいから庭園はどちらだ」というのです。相手はおそらく何万坪という庭園でも想像したもんでしょうが、こちらには、そんな大庭園はありません。

 そこで考えた末に、裏木戸をあけて板新道の方ヘ散歩に出てもらいました。犬の散歩から戻ってくると、五郎は「お前の庭園を歩いたら、うなぎ茶漬と書いてあったがどういうものかね」と聞くんです。

 つまり、板新道の通りを私のところの庭園だと思ったんですね。やはり殿様です。そして「うなぎ茶漬をすぐ持ってきてくれ」と言うんですが「一時間ほど待ってほしい」というと「それでは明日にしよう」といって夕食をたべられたが毛利五郎もそういう人物でした。


   2016年09月15日  ハシをつけぬ殿様    (毛利新田視察のお殿様)

 毛利元昭なる殿様については想い出はいくつもございます。

食事ですが、御膳を出すと、いつも汁だけを手につけて他の馳走には全くハシをつけられないのです。

 驚いたり心配して御附女中に話すと「そんな筈はないが……」と不審そうな顔付です。いろいろ話をしているうちに御附女中さんが、合点できたというような顔附でつぎのように語りました。

 「つまり、お殿様はいつもお食事のときは御給仕の者が、つぎつぎと御馳走を手にとって、さあ、これへハシをおつけなされませといつた格構でおすすめしているのです。ところがこちらでは、宿の女中さんがじっと座って御飯のお代りを待っているだけなので、御殿様はどれヘハシをつけてよいのか判らず手近な汁だけヘハシをつけられたのでしょう」

 毛利新田のころは、いろいろな人物が往来しました。毛利の殿様のあとで弟の毛利五郎が高田真蔵の息子を連れてきました。この息子は天下の糸平とうたわれた、当時の大成金の息子でした。

 五郎は私の家へ来ると「僕は兄とちがって書生だからね殿様扱いは困るよ」という挨拶でした。何しにきたかというと、牟呂方面への猟にきたわけで、大きな犬を五匹もつれてきました。

 着くなり「牛肉五斥ほどすぐほしい」という注文です。つまり、五匹の犬に一斥ずつ喰わせるんです。このとき、持ってきた荷物が全部で廿八こうりには驚きました。これではちょっとした引越しです。その荷物をズラリと座敷へひろげるんですから大変です。こんなぜいたくな鴨猟の客を扱ったのは最初にして最後でした。


   2016年09月14日  牛乳をのまぬ殿様    (毛利新田視察のお殿様)

 長州のお殿様、毛利元昭のことなんですが、毎朝、午乳を二合づつ用意してほしいという注文でした。

二合入りのコップがないので、二つのコップに分けて、ならべて持参しておきましたところが、殿様はいっこうに牛乳をのまれないのです。

 おかしなことだ……とお附の女中に「どうして注文の午乳をのまれないのか」と聞くと「お屋敷では二合入りを出すとぎゅっと一息にのまれます。豊橋のお宿では二はいになっているから一ぱいだけのむのか、両方のむのか、おわかりにならなかったのだろうと思います」ということでした。

 人間も暮らし方が違うと牛乳をのむのにも、こんなにややこしくて難儀なものかと、そのときつくづく感じました。


   2016年09月13日  風呂のわからぬ殿様   (毛利新田視察のお殿様)

 さきの話に出た旧藩主毛利元昭が豊橋へ来たとき、私の店へきまして奥座敷へ案内すると、袴をつけて床の間の前に座ったなり、寝るまで姿をくずさないのです。いくら殿様の修行ができていると言ってもこれには驚きました。

 風呂の時間になって「さあ、お湯へ」とすすめると、お付の女中が介添えして風呂場で、その女中が背中を流すのです。「お湯を持ってこい」と言われるので、洗面器ぐらいの桶にお湯を持っていっておきました。

 女中が「さあ、お流しがすみましたから、一度中へ入られるとよろしゆうございます」と言うと殿様は「どちらへ入るのか」と風呂へ入るのか小さい桶の方へ入るのか迷っておられました。

 われわれには想像のできない話ですが、そういうことが昔の殿様にはさっばり判らなかったと見えます。

これを聞いて私は驚きました。もっとも豊橋へ着かれた当初「さあ、どうぞ」といって御案内しないかぎり、同じ場所にじっといつまでも立っていられるという風で殿様というような方は普通とは、少しどころか大きな違いだと思いました。


   2016年09月12日  桂太郎、豊僑へ伺候   (毛利新田視察の殿様にご挨拶)

 名古屋師団長の桂太郎が旧藩主毛利元昭が豊橋ヘやってきて私の家へ泊ったときにやって参りました。桂太郎は昔のお殿様へ挨拶というわけです。そのとき、桂太郎も新田でイナ寿司を「うまい」言って喰べたそうですが、いやはや、長州人の生臭好きには感心しましたね。

 毛利の殿様の座敷に挨拶に出た桂太郎に私が「今夜は、こちらへ泊りなされるか」と伺うと「いや、殿様と同宿では恐れいるから」と名古屋へすぐに戻りました。やはり昔の殿様と同じ宿では、いくら師団長でも窮屈だったでしょうな。

 当時陸軍には「三太郎」という言葉が流行していました。交際上手で人から親しまれた桂太郎、作戦戦術家の仙波太郎、焼ちゅうを二合入りのコップでギユッと呑んでからでないと、普通の酒はたるいというが、しかし、カミソリのような児玉源太郎の三人のことです。そしていつもニコニコしているが桂にはうっかりしたことは言えないというのが定評でした。


   2016年09月11日  白魚飯とイナ寿司    (毛利新田の開拓責任者たち)

 毛利新田の事務長の白井が辞めると、桑原為善が代りにきました。やはり長州人でしたが女好きでした。

桑原が私の店へ来て白魚の飯を炊いてほしいというのです。炊いて出すと白魚の入れ方が少ないとの小言です。桑原は「白魚一升へ米は二勺ぐらいだと白魚飯は美味しい」というんです。とても、そんな生臭い飯は喰えるもので

はないんですが、長州人はそういうことは誠に無とん着なんですね。

 私はこの連中が新田でイナを釣って寿司をつくっているのを見たことがありますが、まずイナをさいて水で洗います。その洗った水をこぼさないで、飯のなかへ入れて寿司飯を炊くのです。これにはギヨツトしました。

 その匂いだけでガアツと吐きそうになるのに彼らは「うまい」と、それで寿司を作るのにはたまげました。


   2016年09月10日  村田銃の村田大佐    (毛利新田を視察に来た)

 毛利新田をやっているころ、いろいろな人がきましたね。つまり視察にきたんです。当時の有名な井上馨を始め榎本武揚などもきました。そのとき伊集院兼輔は表も裏も銀狐の外とうを着てきたのには驚きました。といって、豊橋ではまだ銀狐の価値などはわからぬ時代で、ただずいぶんピカピカした外とうぐらいに思っていました。

 話はちがうが、例の村田銃の発明者の村田大佐が明治十九年か二十年頃、十八連隊を視察にきたときは、先生の外とうの裏は全部がラツコでしたよ。これはまた大したものだと私は驚いたことがあります。

 また十八連隊にいた神戸大尉というのはラッコのシヤッポをかむっていましたが、これも今の相場にしたら大したものでしょう。


   2016年07月21日  県令豊橋へ来る     (毛利新田開拓を毛利に勧めた県知事)

 関屋の百花園の名が売れだすと、玉屋という札木の女郎屋の隠居が一なかなかお茶人であったので、やはり玉屋という渋い好みの料理屋をそこへつくりました。さすが客も風流な人ばかりで、今のように炭坑節でドンチャンやる客は一人も来ませなんだ。だから、県令などが地方へ巡視にくると、この玉屋を休憩所にあてました。

 知事が――当時の県令――東京から赴任するとき汽車はないので車でやってくるため勝間田知事などは私の家で昼食をしたこともあります。知事が巡視のとき玉屋へ案内されました。芸者の接待は無礼だというので、当時月琴という楽器が大流行で上流家庭の娘たちはみんな習っていた。そこで、この令嬢らに頼んで飾り船に乗せて大橋からお城下まで船中で演奏するのを、県令の耳に入れる―― といったサービスが行われたこともあります。

 当時 県令などの招宴は、県令だけに御膳が出て、今でいう市長、署長といった人々には御膳は出さない。お流れちょうだいでもあればいただくだけで、ただ県令が飲み、喰うのをみているだけです。

 その県令が満腹して――帰ると膳が出て酒が出て「やれやれ」と後からやるわけで、封建主義というのか、何だか知りませんが、昔は変った流儀でした。県令がそれだけ威張っていたわけです。



神野三郎伝に長坂理一郎についての下記の記述があり「昔はなし」も出てきます。

 「千歳楼の長坂の話はなかなか面白い、長坂はもうだいぶの年だと思うが、物覚えのいい男だ。 なんといっても、豊橋一の料理屋をやっていた男だから、遠慮なくぶちまけた話をさせたら、とても面白い話がたくさんあるだろう。 いつだったか、長坂らが大将になって、全国の料理業大会みたいなことを豊橋でやったことがある。 あの男の伝記を書いたら面白いぞ。」  長坂理一郎は、明治、大正、昭和の三代に続く豊橋代表の料亭「千歳楼」の主人であった。もの覚えがよく、豊橋の古い話を新聞に発表したり、またそれを一冊にまとめ「昔はなし」と題して昭和丗三年出版したが、それから間もなくこの世を去った。


 ・このすぐ上の2枚は2020.06に購入した絵はがきで、左は着色した

 ・その上2枚は、国立国会図書館デジタルコレクションの「豊橋市市制30周年記念写真集」から