新田開拓の地理的環境

▶ 概要

愛知県豊橋市を流れる豊川(とよがわ)を中心にした河口を含む一帯を三河湾に広がる六条潟(ろくじょうがた)と呼び、川からの土砂が冬季の西風による打ち寄せる波で海岸に洲ができた遠浅の海である。そのため、江戸時代初期から開拓事業が盛んで江戸時代末期までに合計25の新田が作られた。

 新田開拓は豊川にできた洲、および六条潟沿岸の洲を西へ西へと広げてきたが、冬季の強烈な西風による波浪で堤防が破壊されるため、海岸の西に延びる広大な洲がありながら、新田開拓はあきらめられていた。しかし強固な堤防で囲えば江戸時代に作られた25の新田の総面積に匹敵する、1千町歩(1,000ha)を超える広大な新田が確保できることを、明治12年(1879)頃に愛知県庁土木課の岩本賞寿が確認していた。(岩本は朱記の福島献吉の測量の事も知っていたよう

 しかし、遡ること46年前の天保4年(1833)に富士見新田(後の富久縞新田と明治新田)を作った福島献吉が吉田藩からの命を受け、毛利新田(後の神野新田)となる辺りの900町歩と灌漑用水(一鍬田から引くとあるので、ほぼ牟呂用水)を測量した。なお、本構想は江戸幕府が先に計画したが関係町村の反対に会い、いずれの新田開拓も中止となった。測量後55年経過した明治21年(1888)に毛利氏による新田工事が開始された。


▶ 目次


▶ 毛利新田ができる場所の洲の状況

 ・牟呂沖と南の大津島を中心とする洲は非常に広大であり、干拓には理想的であった

 ・ただし、冬の西風による怒涛で、従来の堤防では簡単に破壊されてしまっていた

伊能忠敬地図(1800年~1816に測量・作成)


▶ 毛利新田ができる前の新田開発の推移

 ・江戸時代末期に富士見新田が作られた後は、明治21年の毛利新田まで誰一人として新田開拓をしなかった

 ・富士見新田は完成するも直ぐに波浪で堤防が決壊し、西富士見新田は翌年に富久縞新田として復旧

 ・中と東富士見新田は明治に入ってから牟呂村の有志により復旧され、西・東明治新田となる



▶ 新田開発の推移の動画

新田開発の歴史 順方向:江戸 → 明治

新田開発の歴史 遡り方向:明治 江戸



▶ 毛利新田ができる前の青竹新田からの鳥観図


 ・毛利新田ができる前の、現豊橋駅の上空から神野新田方向を見た絵で、手前の緑が青竹新田、右が豊川

 ・茶色が左から東富士見、中富士見、西富士見に3つに区分けされた新田(完成直後に波浪で破堤し、1年後に

  西富士見新田は富久縞新田、明治になって東富士見と中富士見は東明治新田、西明治新田と名称を変えて

  復旧される

 ・毛利新田は富士見新田の正面奥から左奥にかけて造られることになる(干潮時は洲が見えたはず)

 ・正面の方角は南西で「渥美半島の先端」、その右が知多半島先端、右斜めが「名古屋」の方向である

 ・明治20年代に人力だけで工事をするのは、想像を絶します


 ・富士見新田と名が付いた理由は吉田藩の殿様が堤防から富士山が見えたから(画像のピンクの場所)

 ・神野新田の堤防からも冬場の空気が澄んだ時には富士山が見えます

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