明治時代に開拓されたの新田

▶ 明治20年と23年の地図

「神野新田 酒井正三郎著」の巻頭の画像の中に掲載されている



▶ 明治22年の尾参実測図

 ・上の地図より洲の状態が良く分かる(干潮時の洲が明確に描かれている)

 ・地図が測量された時期は毛利新田の堤防が作り始められたころと考えられる


▶ 明治以降に作られた新田

 ・明治新田(1880)・・・こちらは明治に造られた新田

荒廃していた中・西明治新田を明治13年に牟呂の有志により修築したもの

 ・参考:明治新田(1880

  ・下の左が明治新田の修復計画図、方位が少しズレている

  ・明治新田の南東から左斜めの家並みは、牟呂から大崎

昭和62年牟呂小学校発行の「むろ」94ページ より



 ・吉前新田(1894)・・・こちらは明治に造られた新田

よしざき新田は、豊川河口左岸、神野新田の北に位置し、明治25(1892)年、浅野喜七郎・青木平太郎・同和市・同重五郎・西土文八・藤井平三・伊庭喜市・中村兼四郎・小柳津治郎右衛門・吉原裕太郎・宅間菊太郎の11名の土着資本家の手で、海面を埋め立てすることによって開かれた。 明治25(1892)年2月4日埋め立て願出、翌26(1893)年着工、翌27(1894)年6月20日竣工した。 愛知県告示第68号(明治 27年6月20日)に、「吉田方村牟呂村地先水面埋立地、字東吉前新田ヲ吉田方村ニ、字西吉前新田ヲ牟呂村ニ編入ス」とある。 明治27(1894)年,吉前新田竣工に伴い吉前水神社が祀られ、 昭和28(1953)年9月25日、台風13号によって水神杜は破堤流出したが仮遷宮し、同58(83)年、移転・再建された。 昭和7(1932)年、豊橋市吉前町字東吉前新田・字西吉前新田となる。


・ 吉前新田と毛利新田・神野新田の関係

  3つの新田が年代も位置も一部重なっているので関連を記載する

 ・毛利新田の工事開始が明治21年

 ・毛利新田の築堤の一応の完成は明治23年

 ・吉前新田の埋め立て許可出願が明治25年2月4日(この時点では毛利新田は存在していた)

 ・毛利新田の堤防壊滅が明治25年9月4日(以降、毛利新田は崩壊したままであった)

 ・明治25年12月に毛利新田新田の売却を決定し、新田を桑原名義に書替えて登記変更をした

 ・吉前新田の関係者は毛利新田の購入は出来なかったようだ

 ・神野金之助が毛利新田の権利を買ったのが明治26年4月

 ・神野新田は築堤開始が明治26年6月上旬

 ・澪留が明治26年9月16日、17日(澪留が築堤工事の最後なので、この時点で堤防は一応完成した)、

  毛利新田の堤防の遺構があるにしても、速い工事だ

 ・吉前新田の工事着手が明治26年(月の情報が無く、神野新田の工事との関係不明)

 ・吉前新田の工事完成が明治27年6月20日

 初代金之助翁の「神野新田紀事」には吉前新田の事には触れてないが、神野新田の築堤後に吉前の築堤を

 する方が、当然有利(南側の堤防は神野新田があるので吉前側は作らなくてよい)である。