福島献吉による富士見新田開拓

▶ 福島献吉より

一、はしがき

 江戸時代、吉田 (豊橋) 付近に於ける新田開発の数は相当に多かった。その開発年次の明かもののみでも、以下のように12を数えるが、その他のものに至っては、更に多かった事は言う迄もない。

 

   名 称    位置    開発年次           名 称    位置    開発年次

   中原新田   二川    元和  7年(1621)     高須新田   牟呂    寛文  5年(1665)

   土倉新田   牟呂    寛文  5年(1665)     津田新田   植田    寛文  6年(1666)

   松島新田   牟呂    寛文  6年(1666)     芦原新田   高師    元禄  3年(1690)

   加藤新田   前芝    元禄  9年(1696)     牧野新田   牟呂    元禄11年(1698)

   彦坂新田   高師    元禄13年(1700)     下野新田   牟呂    元禄16年(1703)

   青竹新田   牟呂    明和  7年(1770)     富久縞新田  牟呂    文政  4年(1821)

 

 上のうち、開発年次の最も新らしい富久縞新田は、吉田藩士の福島献吉の築造によるものであった。 しかし、この新田が他に比ベて異色ある点は、藩の為の開発でありながら、この計画並びに費用は、全部発起者の福島の手に委ねられたと言う点にある。  なぜこのような条件になったかは不明であるが、かかる大規模な事業を独力で目論見、かつ着工した彼の気はくは正に勇ましいものであつた。

 

二、略歴

 福島献吉の事蹟は明かでない。 ただ富士見新田 (後に富久縞新田と改む) 築造者としてのみ知られるのであるが、その点に付いてすら、はなはだだ不明瞭である。 従ってここでは富士見新田築造に付いての概要を述べることにする。

 

 次に福島の略歴の判明している所を次に記す。

   ・文化10年正月  年来出精相勤候に付只今迄の通にて御使番格仰付られ20石御加噌100石に成下さる。

   ・文政 3年10月  此度牟呂沖新開惣奉行仰付られる。

   ・文政 4年10月  瘧(シャク)を病み甚だ苦しむ。

   ・文政 9年  1月  10石加増、110石に成下さる。

   ・文政11年 7月  御奏者番格御勝手懸仰付らる。

   ・天保 2年  6月  御用人並仰付られ、20石御加階成下され、勤向是迄の通。

   ・同年       10月  御勝手懸御免、御用役是迄の通。

   ・天保 5年正月  高130石、側向用役表女中懸り、格式用人並。

   ・天保 7年  3月  京都にて没す。享年69才。

 

三、富士見新田

(イ)計画

 当時江戸詰であった福島献吉は、文政2年(1819)7月、藩主の松平信順(まつだいら のぶのり)に随行して吉田に来た。 この時既に新田開発の大体の成案を得ていた彼は、翌3年(1820年)5月には新田開発見込書を主君の信順に献上し、その許可を得、同年9月、主君の信順が再び參府(大名が江戸出ること)の途につくも彼は吉田に留り、献吉の養子留吉の実家柴田猪助の邸に生活して、新田開発のために全力を注ぐこととなつた。 もちろん吉田藩としても献吉一人に任せず、相当の援助をすることにはなったが、しかしこれに要する資金は、全部献吉自ら調達するを条件として許可を受けた関係上、献吉の責任たるや非常に大きなものであった。

 この時の献吉の計画は、当時豊川河口の左岸に於て、茅野新田、青竹新田を経て牟呂村に亘る海岸一帯を長方形に約百五十町歩を埋立て、それを二つの川口より西、中、東の三に区割りし、そのうち東及び西の二区は田畑、中の場は塩田として、ここよりとれる塩の売上により、ここの開発に要する費用をまかなうと言うのである。

 文政3年(1820年)10月、献吉は牟呂沖新開惣奉行を仰付けられ、その下に松本茂助以下7名が役員を命ぜられて、いよいよ新田開発に着手したのであった。

 

(ロ)実施

 かくて領内各村より徴用した人足により、文政3年(1820年)10月27日より、いよいよ工事を開始した。 献吉は連日出張して監督し、一方、費用調達にほん走する等、中々の努力であつたが、その結果相当の進捗を見、翌文政4年(1821年)2月9日には澪止(ミオドメ)をするまでに至った。 もちろんこの間には堤が切れ、あるいは圦(イリ)が危くなる等、樣々の事故が起つたが、それはとにかく切り抜けて来た。 しかし、ここにきて最も困ったことは、予想外に費用がかさんで、献吉が準備期に自ら諸方を駆け回って集め得た資金が早くも欠乏して来たことであつた。 近く竣工を控へてこの難に出合った献吉は、必死になつて努力したが逐に及ばず、止むを得ず江戸表にいる主君に助力を求めたのであった。

 これについて同年3月26日に江戸表重役から、しかるべく授助する旨の返事があつた。

それで献吉も一まずづ安心はしたものの、やはり直ちに援助と言う分けでもなかつたと見え、文政4年(1821年)4月18日、工事が竣功する間際に至るも、まだ払うべき金なく、正に苦しい立場に陥つていた。 献吉の養子留吉の親にして、且つ事業関係者である柴田猪助は、その日記に「土功終。クロクワヤカマシ。」と記している。 もちろん献吉は堤防が充分に出来る以前から、既に牟呂、青竹邊の塩師に塩を作らせ、これを売って幾分なりとも資金を得ようとは試みていたのであるが、これはほとんど問題にならぬ程度のものであつたらしい。

 それでも、いろいろするうちに8月24日に至り、ようやく工事は一まず終了する事が出来た。 これからは工事に費した金の整理と製塩とに力を尽くすこととなつたのである。

 しかし、10月頃からひどく瘧を病み、柴田の家に生活して病を養う身となつたが、彼の事業に対するいら立ちは中々静養を許さなかった。 その上、しばしば藩士中より洩れる彼に対する非難の声は、更に彼をいらだたせたのである。 

 この頃、献吉が苦心した金策の一に、江州金談なるものがあつた。 その内容がどうかと言うと、藩主松平伊豆守領分の内、江州在方の23ヶ村中より、その石高、おおよそ6,000石を引当に5,000両、同じく大津表御藏米中5,000を引当に5,000両、合計一万両を大阪商人から借入れようとするものであつて、なお、これに対する利息は年8朱、返済は10ヶ年賦とし、此の大金の調達が出来た暁には、口入人である江州の米次郎なる者へ口入料として金350両を与える約定であった。

 この一万両借用の相談は、文政4年(1821年)11月29日に定まり、着々話を進めて行った。 このようなことは藩としても中々の大事であつて、富士見新田のため、しいいては献吉のために、よくも決意したかに思われるが、その実は必ずしも新田の費用としてのみでなく、ひっ迫した藩の財政補填に用いる心積もりであったことは言う迄もなかつた。

 このことのため、献吉は10月からの瘧がまだ回復しないにもかかわらず、病を押してへほん走、外出の途中に病気が起つて倒れたことも何度もあったが、上の話は12月17日に至って遂に破談と決まった。 充分に成功を信じていただけに、彼の失望落たん膽は想像に余りあるものであった。

 文政5年(1822年)5月、彼の計算したところによると、工事着手以来、文政4年末迄に要した総費用は次のようであった。

 

   一、金三千七百六十二兩一分二朱   新開惣入費

   一、金三百五兩二朱一        借金利息

   一、金二百四十兩          鹽濱入用

   一、金二百三十二兩二朱       所々江の贈物、人夫書食代其他

      合計四千五百三十九兩二分二朱

 

 上右に対して借入金は、前芝村の六藏、篠塚村の只右衛門、青竹新田の千藏、花井寺等20数數軒より4,100余両、これに特に藩主よりの500両を加へて合計4,601両2分であつた。 即ち献吉が東奔西走して調達に腐心しているにもかかわらず、この時既に100両の余裕すらないのであつた。

 次に製塩についてはどうかと言うに、文政4年8月未、工事が終った後、既に本格的に播州赤穂、江戸行徳、西三河大浜の三ヶ所より塩師を迎へて製塩に力を注ぐ一方、その売りさばきにも各方面と折衝していたが、これに付いても、中々思い通りにはならないのであつた。 しかし、潮田に関する献吉の抱負は次のようなものであった。

 まず本格的に塩の生産を行うのを文政5年4月以後とし、最初に金1,500両を年7朱にて借入れて基礎とする。 しかし、この年の塩の生産高を400両と見、これを差引して金1,160両の借金とする。 2年目は前年よりの借金元利合計,1,241両となるが、この年からは完全に製塩が出来るので、この収入600両、差引して金641両の借りとなる。 こうして塩の製産を毎年600両と計算し、順次差引して行けば、4年目には最早借入金をすべて返済しても500余両の余裕を見ることが出来、更に13年目に至れば塩田よりの収入は8,120両となり東西の間 (田畑)の分の借金を元利全部を済すも、なお多大の収益があることになると言うのである。

 以上述べたように、献吉の腹案によればこの新田開発に付いては充分成算はあったが、数々の点において食い違いを生じた。金の借入、塩の生産高、その売りさばきについても全て予想を裏切り、文政5年(1822年)7月には、遂に西の一割を出資者の前芝村の加藤六蔵等に譲渡さなくてはならないこととなった。 更に翌6年(1823年)末には又々、東の場の売り払いの内談が出で、7年4月に至つて尾張國知多郡の内藤家に売却したのであった。 即ち藩におてはこと既に成らずと観念し、西中東の三場所のうち、利益が多くなるはずの、中の場のみを残して、製塩事業を行い、東西2場は売払つて借財整理をしようとしたのである。 しかし、上の塩田については藩より上級役人を専任に命じたので、献吉の一身を賭けての一大事業は、全く彼の手を離れて藩に移ってしまった。 献吉の心中いかばかりか、察する余りありと言うべきであった。

 

(ハ)終末

 さて献吉の手を離れた塩田 (中の場、今の明治新田北部)はどうなったかと言うと、これまた予想通りの成績をあげることは出来ず、5年後の文政12年(1829年)末には売却の話が出て、翌13年(1830年)春遂に大木村惣十等に護渡してしまったのである。 かくして富士見新田は全部民間に移ったのであるが、新田開発に要した借金の整理は中々進行せず、天保2年末に至ってようやく完済することができたのであった。

 

四、富士見新田以後

 毛利氏が、新田を起工する明治21年(1888年)の55年前の、天保4年(1833)の春、今度は幕府が牟呂沖に、大津島(このページの最下位に大津島と神野新田の地図)を中心とする大新田を開くとのうわさが伝わった。

 当時、吉田藩主の松平信順は大阪城代として大阪の地にあったが、そのうわさを聞くと、以前の富士見新田開拓で苦しんだ経験にもかかわらず、自己の領地への体面上から、この幕府の計画に対抗して、再び新田開発を行おうとし、4月、既に経験を持つ福島献吉を起用して、吉田に向わせた。これに付いては資金の関係から、藩江戸詰役人より強い反対があったが、押切って決行することとなったのである。 今回は従来の富士見新田の外廊を大きく埋立て、総坪数920町歩余を 開発する目算であった。 加えてこの地域に対する灌漑用を得るため、松原用水を参考にして、八名郡の一鍬田より、吉田龍拈寺間及び豊川沿岸を測量、水位を充分に研究して水道をも開墾しようとしたのである。

 以上から、今回の新田は、ほとんど現在の神野新田に相当し、その水道は牟呂用水に似たものであったことが想像される。 

そして、大体の測量を終えた献吉は、同年12月一旦大阪に帰還、逐一を藩主に報告した後、翌天保5年(1834)1月には江戸に出向いて幕府の許可を得ようとした。 このことは実に難問題であったことは言う迄もない。 いかに自領内とはいえ、既に幕府自身の計画があるところへ、ほとんど同じ計画を申出たのであるから、容易に許可が出るはずはなく、献吉の猛運動もなんら効果をもたらさなかつた。

 これより先、幕府の大目論見が民間に伝わると、物情騒然たる有様となり、埋立によって直接被害を受ける村民の動揺は、抑え込むことはできなかった。 種々協議の末、ついに天保5年6月に至り、関係15ヶ村は連署をもって、開発反対を吉田藩主に直訴したのである。 しかし吉田藩は前述のように、幕府に対し開発許可の運動中と言う皮肉な立場にあつた。 そして、この反対が成功したか、あるいは他の理由によるか、とにかく翌天保6年(1834)正月、幕府は正式に新開停止の旨を村々に通達して来た。 そして吉田藩の計画も自然立消えと、ならざるを得なかつたことは当然であろう。 従って江戸において活躍していた献吉もまた、お役御免となったわけである。

 

五、むすび

 かくて献吉が精根を傾けた新田開発事業も、全く意に反し初期の目的を遂げ得ないまま、天保7年(1835)3月69才をもって亡くなったのであるが、その後11年を経た弘化4年(1847)、富士見新田はようやく一応の完成を見、名称を富久縞新田と改めたのである。 その後も災害が絶えず、遂に荒廃が危ぶまれたが、辛うじて維持ができ、明治6年尾張の人、東松松藏等の有に帰し、更に明治12年(1879)小作人各自に売渡して現在(富久縞町の大部分及び明治新田)に至ったのであった。

 この事業は神野新田の先駆として特筆されるべきものであらろが、その当面の関係者である福島献吉の後途絶え、かつその墓所すら定かになってないのは誠に遺憾なことである。 従って現存する富久縞新田記念碑にわずかに開発者として名前を記すのみで、その他の事業には全く触れていない。 しかし、不幸中の幸とも言うべきは、献吉の養子留吉の実家の柴田家には、今でも古文書を保有が非常に多く、その中には、この新田に関するものも少くない。 今これによつてわずかにに献吉の事業の概略を知り得、ここ處に一文を書くことが出来たものである。 末筆ではありますが、柴田氏の御好意を感謝して筆を置きます。


▶ 富士見新田の手書き図

 

富士見新田のフルサイズの画像は 地理的環境 に掲載してあるが、こちらは一部分の拡大図で文字がかろうじて見えるため、ひとまず貼っています。


▶ 富士見新田の拡大(茶色部分の左から、東・中・西の3つに分かれている)


▶ 中富士見新田の塩田割当図(牟呂史より)

 ・塩田は上の図の茶色部の真ん中、満足な結果は得られず塩田は長続きせず売却となる


▶ 大津島との位置関係(理由は不明だが計画は実行されなかった)

 ・幕府は大津島を中心にした開発を計画

 ・大津島は田原藩のものなので吉田藩は富士見新田沖の開発計画を立てる

 ・牟呂の人は富士見新田沖の開発に反対した

  ・農閑期に海藻を採って肥料として売っているが海が遠くなって困る

  ・年中貝を取っているが海が遠くなって貝が採れなくなると貧乏人のお金稼ぎができなくなる

  ・低い位置にある田の水はけが悪くなり、年貢に影響するぞと脅した