大崎より砂の調達

明治25年頃には長松島からの砂採取は禁止されたようなので毛利新田のはず


浅蜊の養殖

 

 漁業・工業関係では、浅蜊の干物を製造し販売していた。浅蜊は、明治12年(1879)までは村民に自由に採取させていたが、明治13年2月密漁乱獲を防ぎ、浅蜊を増殖するための村民申合規約を作った。

 その後、佐々木忠次郎理学博士の講演により浅蜊が卵生であることを知り、養殖の必要性を感じ、明治25年頃より浅蜊養殖にあらゆる努力を重ねていった。そして翌26年箕作佳作理学博士を招聘し、浅蜊の生育についての学説を聞き、稚浅蜊移殖の方法を取り入れることになった。それ以来、改良に改良を重ねて、浅蜊養殖の基礎技術を作り上げるに至った。

 その漁場は大崎から船渡にかけての地先干潟海面であったが、大崎地先海面に連なる平島・本島・欠島・長松島に隣接する砂浜海面にまで新しい漁場を広げていった。

 漁場を拡大するためのひとつのきっかけに、毛利新田築造の問題があった。

この新田は、後に神野新田と呼ばれる新田であって、この堤防の築造は明治20年11月頃から開始され、26年頃まで続けられた。

 大崎村では、神野新田造成のための土砂を大崎地内長松島より提供することを契約した。この目的は、長松島の地区に新しい漁場を造る計画があったので、土砂を採取することによって自然に良い浅蜊の養殖場ができることであった。もうひとつは 大崎村の人々が長松島の土砂を船1杯何銭と値段を決め運搬することによって、得難い収入源が得られること等であった。まさに大崎村の住民にとっては、一石二鳥の稼ぎ場であった。

 村人は先を争って土砂を採掘したから、長松島はみるみるうちに姿を変えて、当初計画していた浅蜊の養殖場のもくろみはミオ筋と変わってしまう心配が出てきた。また長松島を失うことによって、北西の潮風を正面から受けるため、農作物に被害を生ずる恐れも出てきた。

 村民は、「これではたまらない。是非とも東長松島だけでも保存しなければ」と種々協議を行い、対策を練った。 そこで東長松島の保存 願を愛知県知事に提出することになった。知事からは願いの趣を免許するとの回答を受け取り、ようやくにして、漁場と東長松島を保存することが出来た。このようなハプニングをおりまぜながらの漁場の拡大であった。

 これとは別に浅蜊を保護するための村民申合規約の再検討を行い、明治25年12月、時代の進歩に適合し規約を作りあげた。