江戸時代に開拓された25の新田(50音順)と完成年

青木新田(1693)

あおき新田の地名は、 開発者・前芝村青木九郎治に由来する。 元禄6 (1693)年以前、豊川河口右岸に新田が開発され た。 新田の高は、「旧高旧領取調帳」(明治元年) に、豊橋藩領分118石余とある。 「吉田領戸数調」(安政5年)では家数25、 人数103であった。 明治11(1878)年、青木新田・山内新田は前芝村に合併した。 昭和30(1955)年、豊橋市前芝町となった。


 青竹新田(1770 

あおたけ新田は、明和 7(1770) 年、豊川河口左岸に前芝村青木九郎治・吉田(豊橋)呉服町大嶽七右衛門が開発した新田である。 新田の高は、「旧高旧領取調帳」(明治元 年)に、豊橋藩領分248石余とある。 「吉田領戸数調」(安政5年)によれば家数10、人数53であった。 明治11(1878)年、青竹新田・茅野新田・富久縞新田・牧新田・加藤新田・中村新田は合併して青野村となった(明治22年加藤新田・中村新田は宝飯郡前芝村へ編入)。 昭和7 (1932)年、青竹新田は豊橋市青竹町となった。


梅村新田1704


老松新田(1859

おいまつ新田は、安政6(1859)年、貞享年間頃に開発されたが、その後たびたび破損、八郎右エ門が再築、2町5反。


茅野新田(1697

かやの新田は、元禄10(1697)年、前芝村・梅薮村の村請負で豊川河口左岸に開発され、宝暦元(1751)年、新田の修復をし、堤を築いた。 渥美郡茅野新田の高は、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分64石余とある。 明治11(1878)年、竹新田・茅野新田・ 富久縞新田・牧新田・加藤新田・中村新田が合併 して青野村となった。 昭和7(1932)年に茅野新田・富久縞新田・牧新田は豊橋市富久縞町となる。


茅場新田不明


加藤新田1696

かとう新田は、元禄9(1696)年、吉田(豊橋)船町の加藤平四郎が、豊川河口に開発したことによってできた。 しかし、宝永3(1706)年、前芝村の加藤長左衛門に譲渡された。 渥美郡加藤新田の高は、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に、豊橋藩領分79石余とある。 明治11(1878)年、青竹新田・茅野新田・富久縞新田・ 牧新田・加藤新田・中村新田は合併して青野村となった。 明治22(1889)年、加藤新田・中村新田は、豊川の河流変更のため宝飯郡前芝村に編入された。(前芝の加藤は加藤六蔵の家であるはず)


清洲新田1663

きよす新田の地名は、 開発者吉田(豊橋)札木町の中西興右衛門の出身地・尾張清洲に由来する。 寛文3(1663) 年、豊川河口右岸に46町余の新田を開発した。 清須新田の入植者は、中西与右衛門以下の14人と黒鍬38人であった。 清須新田が開発されたことにより、上流の川崎村・下五井村が洪水の被害を受けるようになり、両村との間に水論となった。 宝飯郡清須新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分480石余とある。 「吉田領戸数調」(安政5年)によれば、家数56、人数271であった。 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に清須新田「神 明」とある。 昭和7(1932)年、大字清須新田を豊橋市清須町とした。


下野新田1703

しもの新田は、天和2(1682)年ごろ、吉田(豊橋)札木町の問屋久兵衛が馬見塚村(まみづかむら)の堀割に堤を築き、その両岸を開発して問屋新切と称したものである。 元禄16(1703)年、下五井村の権左衛門・野田村の弥惣左衛門が整備して下野新田と称した。 渥美郡下野新田の高は,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分45石余とある。 明治11(1878)年、豊田村に合併したが、同17(1884)年、西豊田村となった。 昭和7(1932)年、豊橋市小向町となる。


中富士見新田1821

なかふじみ新田は文政3(1820)年、吉田(豊橋)藩が、福島献吉を牟呂沖新開惣奉行に任命して築成した。 富士見新田は、大風と高浪によって、堤防が決壊して荒廃していた。 西富士見 新田は、文政4(1821)年に、修復されて富久縞新田となった。 しかし、中富士見新田・東富士見 新田は荒廃に帰していた。 それを、明治13(1880)年、牟呂村の9人(加藤七三郎、杉浦次郎三、古溝作右衛門、夏目治三郎、芳賀保治、白井清作、住吉米治郎、森田久太郎、森田庄次郎)の手によって塩浜に回復させた。 明治13(1880)年4月に着工して8月13日、103町歩8反4畝13歩の新田開発に成功した。 実際 に要した費用は、1万7000円といわれる。 昭和7(1932)年、豊橋市牟呂町西明治新田・東明治新田となった。


中村新田1707

なかむら新田は、宝永4(1707)年、豊川河口に篠束村(宝飯郡小坂井町篠束)の七郎右衛門が開発した。 渥美郡中村新田の高は、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分7石余とある。 明治 11(1878)年、青竹新田・茅野新田・富久縞新田・牧新田・加藤新田・中村新田は合併して青野村となった。 明治22(1889)年、加藤新田・中村新田は豊川の河流変更のため宝飯郡前芝村に編入された。 昭和30(1955)年に、豊橋市前芝町となる。


西浦新田不明

にしうら新田は文政10(1827)年に完成、貞享3(1686)年に開発されるもその後にたびたび破損、八郎右エ門が再築、4町歩。


西富士見新田1821

にしふじみ新田は文政3(1820)年、吉田(豊橋)藩が、福島献吉を牟呂沖新開惣奉行に任命して築成した。 富士見新田は、大風と高浪によって、堤防が決壊して荒廃していた。 西富士見 新田は、文政4(1821)年に、修復されて富久縞新田となった。 しかし、中富士見新田・東富士見 新田は荒廃に帰していた。 それを、明治13(1880)年、牟呂村の9人(加藤七三郎、杉浦次郎三、古溝作右衛門、夏目治三郎、芳賀保治、白井清作、住吉米治郎、森田久太郎、森田庄次郎)の手によって塩浜に回復させた。 明治13(1880)年4月に着工して8月13日、103町歩8反4畝13歩の新田開発に成功した。 実際 に要した費用は、1万7000円といわれる。 昭和7(1932)年、豊橋市牟呂町西明治新田・東明治新田となった。


高須新田(1665

たかす新田および土倉新田は、ともに、寛文5(1665)年、豊川河口左岸に吉田(豊橋)本町の高須久太夫・高須嘉兵衛、吉田上伝馬町の真弓佐平、豊川村(豊川市)の高須十太夫、吉田住土倉五郎兵衛によって開発された。 しかし、延宝8(1680)年・宝永2(1705)年・同4(1707)年・正徳元(1711)年と災害が続き新田はほとんど海底に没した。 享保3(1718)年、吉田本町の小野久兵衛・高須甚八郎が再開発し、のち、吉田藩営となった。 翌享保14(1729)年、御用達植田喜右衛が引き継いだ。 安政4(1857)年、植田七三郎が土倉新田とともに碧海郡川島村(安城市)の太田佐兵衛に譲渡した。 「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分951石余とあり、「吉田領戸数調」(安政5年)で は家数39,人数200(土倉新田ともに)である。高須新田・土倉新田の産土神として烏塚山に神明社を祀る。 明治11(1878)年、馬見塚村・三ツ相村・吉川村・野田村・高須新田(土倉新田とも)が合併して豊田村となった。 明治17(1884)年、東豊田村(野田・吉川・三ツ相)と西豊田村(馬 見塚・高須)となった。 昭和7(1932)年に高須新田・土倉新田は豊橋市高洲町となる。


津野新田不明


土倉新田(1665

とくら新田および高須新田は、ともに、寛文5(1665)年、豊川河口左岸に吉田(豊橋)本町の高須久太夫・高須嘉兵衛、吉田上伝馬町の真弓佐平、豊川村(豊川市)の高須十太夫、吉田住土倉五郎兵衛によって開発された。 しかし、延宝8(1680)年・宝永2(1705)年・同4(1707)年・正徳元(1711)年と災害が続き新田はほとんど海底に没した。 享保3(1718)年、吉田本町の小野久兵衛・高須甚八郎が再開発し、のち,吉田藩営となった。 翌享保14(1729)年、御用達植田喜右衛が引き継いだ。 安政4(1857)年、植田七三郎が土倉新田とともに碧海郡川島村(安城市)の太田佐兵衛に譲渡した。 「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分951石余とあり、「吉田領戸数調」(安政5年)で は家数39,人数200(土倉新田ともに)である。 高須新田・土倉新田の産土神として烏塚山に神明社を祀る。 明治11(1878)年、馬見塚村・三ツ相村・吉川村・野田村・高須新田(土倉新田とも)が合併して豊田村となった。 明治17(1884)年、東豊田村(野田・吉川・三ツ相)と西豊田村(馬 見塚・高須)となった。 昭和7(1932)年に高須新田・土倉新田は豊橋市高洲町となる。


富田新田1661~73頃

とみた新田は、寛文(1661~73)ごろ柳生川左岸に開発された。 高は「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分102石余とあり、「吉田領戸数調」((安政5年)によれば、家数5、人数33であった。 明治11(1878)年、牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田・向草間村・草間村・松井新田が合併して磯辺村となった。 しかし、明治17(1884)年,牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田は牟呂村となった。 昭和7(1932)年に、豊橋市牟呂町となる。


浜新田不明


東富士見新田1821

ひがしふじみ新田は文政3(1820)年、吉田(豊橋)藩が、福島献吉を牟呂沖新開惣奉行に任命して築成した。 富士見新田は、大風と高浪によって、堤防が決壊して荒廃していた。 西富士見 新田は、文政4(1821)年に、修復されて富久縞新田となった。 しかし、中富士見新田・東富士見 新田は荒廃に帰していた。 それを、明治13(1880)年,牟呂村の9人(加藤七三郎、杉浦次郎三、古溝作右衛門、夏目治三郎、芳賀保治、白井清作、住吉米治郎、森田久太郎、森田庄次郎)の手によって塩浜に回復させた。 明治13(1880)年4月に着工して8月13日、103町歩8反4畝13歩の新田開発に成功した。 実際 に要した費用は、1万7000円といわれる。 昭和7(1932)年,豊橋市牟呂町西明治新田・東明治新田となった。


藤井新田(1704


牧新田1698

まき新田は、元禄11(1698)年、牟呂村(豊橋市牟呂町)の牧野伝蔵の一族が豊川河口左岸に開発したが、安政4(1857)年、前芝村(豊橋市前芝町)加藤六蔵に譲渡された。 渥美郡牧新田の高は、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分54石余とある。 明治11(1878)年、青竹新田・茅野新田・富久縞新田・牧新田・加藤新田・中村新田は合併して青野村となった。 昭和7(1932)年に、富久縞新田・牧新田は豊橋市富久縞町となった。


松島新田(1667

まつしま新田は、寛文7(1667)年、柳生川河口右岸に吉田(豊橋)藩士野部与次右衛門・堀惣助、馬見塚村孫平次によって開発された新田である。 渥美郡松島新田の高は、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分287石余とある。 「吉田藩領戸数調」(安政5年)によれば、家数11、人数 58であった。 水神社称都波能売命を祀る。 明治11(1878)年、牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田・向草間村・草間村・松井新田は合併して磯辺村となるが、同17(1884)年、牟呂村・松島新田・富田新田・上ノ原新田は牟呂村となった。 昭和7(1932)年豊橋市牟呂町となった。


元屋敷新田1851

もとやしき新田は、嘉永47(1851)年、下地村の小野田九蔵開発、6町3反余。


薮下新田(1667

やぶした新田は、寛文 7(1667)年、豊川河口右岸に南部牧右衛門・石川孫次郎が開発した新田で,横須賀村から分立したという。 宝飯郡薮下新田の高は、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分132石余とある。 「吉 田領戸数調」(安政5年)によれば、家数11、人数17であった。 明治11(1878)年、横須賀村・薮下新田は合併して津田村となった。 昭和7(1932)年、大字津田は豊橋市横須賀町となった。


山内新田(1731

やまのうち新田は、享保16(1731)年以前、豊川河口右岸に開発された新田である。 一時荒廃し、宝暦8(1758)年、青木九郎治が再開発し、青木新田の1部となり、後、分村した。 宝飯郡山内新田の高は、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分14余とある。 明治11(1878)年、青木新田・山内新田は前芝村に合併した。 昭和30(1955)年、豊橋市前芝町となった。